Adelaide & Me

梅原萌さん(Moe Umehara)

このコラムでは、アデレードでかつて生活をしていて今は日本に帰国されている方に、アデレードでの経験やアデレードの好きなところ、帰国後のことなどについて伺っています。

梅原萌さん(Moe Umehara)
アデレード在住: 2007年

アデレードに来たきっかけは?

高校1年の夏休み、学校主催の2週間の短期留学プログラムでアデレードにきました。それは、ずっと日本で暮らしていた私にとって、世界がひっくり返るような衝撃でした。学校でリセスというおやつを食ベる時間があるのも、自分の車で学校に来ている高校生がいるのも、冷凍庫から出てくる大きなアイスクリームのタッパーも、すべてが新鮮で。ところ変われば、まったくちがう暮らしがあることを思い知らされました。学校の教室と家がすべてだった16歳の私は「世界はこんなにも広くて、それぞれの場所で違う生き方があって、それは自分で選べるんだ」と、開眼したんです。

何より、ホストファミリーが大好きになりました。つたない英語で話をすると、笑ったり驚いたりとリアクションをくれて。目の色も髪の色も違うのに、こうやって同じ時間を過ごせるってすごいことだなぁと心が震えました。「この人たちをもっと知りたい、もっと仲良くなりたい!」という思いが溢れ、帰国後は10ヶ月の交換留学プログラムに応募することに。高1の1月末、再びオーストラリアの地を踏みました。

交換留学では、アデレードに?

いいえ、最初はアデレードから8時間ほど離れた南オーストラリアの田舎町に派遣されました。交換留学では原則、場所や学校の希望は出せないんですね。田舎町で3ヶ月ほど暮らしたのですが、いろんな問題にぶち当たっていて。あまりにも途方にくれたある日、短期留学でお世話になったアデレードのホストファミリーに連絡をしたんです。事情を聞いたホストファミリーは「今すぐうちにおいで。寝る場所も学校も全部用意するから」と言い、残りの7ヶ月、無償で私の面倒を見ることを決めてくれました。

一人、夜行バスでたどり着いた明け方のアデレードで、ホストファミリーと再会した日のことは今でも鮮明に覚えています。うまくやっていけるかなという不安な気持ちと、大好きな家族とまた暮らせるのは夢みたいだなぁとワクワクする気持ちが混ざり合っていました。でも、あったかいハグに包まれると、緊張がほどけ「きっと大丈夫だ」という気持ちが湧いてきました。

短期留学のホストファミリーとご縁が再びつながったんですね!

2週間しか一緒にいたことのない、ほぼ他人で未成年の私を、何も見返りを求めずに家族として迎え入れるというのは、簡単なことではなかったと思います。大人になればなるほど、あの時のホストファミリーの決断には頭が上がらないですね。

受け入れてくれたことへの感謝の気持ちがいっぱいで、できる限り家族に貢献しようと、お手伝いをがんばりました。ホストシスターを起こして学校に行く準備を手伝ったり、ホストマザーと夕食後の洗い物を一緒にやったり、ホストファザーのランチをつくる担当をしたり......。なんてことない時間の積み重ねがあり、本当の意味で家族の一員になっていけたと思います。親戚にも可愛がってもらえて、おばあちゃんが「This is my Japanese granddaughter」と自慢げに、友達に私を紹介してくれるのが嬉しかったです。


交換留学の最終日、空港にて

アデレードの印象は?

素朴で豊かなライフスタイルがある場所だと感じました。庭でバーベキューをしたり、公園を散歩したり、ビーチでのんびりしたり......。けっして華美ではないかもしれないけど、シンプルな暮らしの中で余白を楽しむような、ゆったりとした時間の流れを感じました。

また、フレンドリーな方が多い印象でした。お店の店員さんが、私たち友達だったっけ? というようなテンションで接客してくれたり、学校では「そのペンどこで買ったの?」と急に話しかけられたり。日本からの留学生だと話すと「このオージースラングはもう覚えた?」と、悪いやつも含めて(笑)新しい言葉をたくさん教えてくれました。

アデレードでの留学生活はどうでしたか?

人生で一番濃い時間でした。帰国日が決まっていたので、いつもマッチ棒をイメージして生活していました。「こうして息をしている間にも火は燃えていて、残りのマッチは短くなってる〜! 今を生きなければ!」と自分を奮い立たせて、その瞬間を大事にしていました。

共働きだったホストファミリーは忙しい中でも、Victor habourやHahndorf、Kangroo島など、いろんな場所に連れて行ってくれました。土曜日は夕食にみんなでピザをつくり、そのあとポテトチップスとチョコレートを同じボウルに入れたものを食べながら、映画を見るという家族行事があり、その時間が1週間のご褒美タイムでした。

学校は、同じ年のホストブラザーの助けもあり、わりと早く慣れることができました。ただ、最初は英語力があまりなかったので、宿題を聞き取るだけでも一苦労でしたね。

日本と学校の違うところはありましたか?

日本の授業よりクリエイティブな印象でした。たとえば、パソコンの授業では、「グループでCMを作る」という課題が出され、パソコンでシナリオを書き、自分たちで演技をし、それを撮影&編集しました。私のチームでは、私が日本出身ということで緑茶のCMをつくることになり、人生で初めて、カメラの前で演技をしました。

先生は一から十まで教えるというより、ファシリテーターの立ち位置。まずは生徒にやらせ、つまづいたところがあればサポートをするというスタイルが新鮮でした。

また、休み時間には外で過ごすことが多かったです。芝生の上に座って太陽を浴びながらランチを取ったり、たまにフットボールを蹴ったり、開放的でした。

苦労したことはありますか?

天気の話をするような友達はできても、英語力に限界があるとそれ以上の会話ができず、なんだか心の距離が縮まらなくて歯痒く思っていました。その状況を打開するため、自分なりに「今日は話したことない人、10人に話かけよう」「昨日覚えた単語を使ってみよう」など毎日小さな目標を掲げ、学校に行っていました。

勇気を出していろんな人に声をかけ続けていると、根気よく私の英語に耳を傾けてくれる人や、私をいじっておもしろくしてくれる人に出会うことができました。そんな友達が増えると、学校生活はさらに楽しくなりました。

帰国前、全校集会でお別れの挨拶をすることになり、オーストラリア人に教わったユーモアたっぷりのスピーチを仕込みました。いざ原稿を読み上げると、会場にどかんと笑いが起きて、最後は大きな拍手で包まれました。ステージから見渡した顔は、ほとんどが知っている顔で、温かい目で私を見ていました。「いろいろ悩むこともあったけど、この景色が私の留学生活の総括だな」と思い、涙が込み上げました。

アデレードに留学して良かったと思うことはなんですか?

ティーンエイジャーの多感な時期に、さまざまな価値観をもつ人たちと暮らせたことです。アイデンティティーが確立していく中、いい意味で常識がぶっ壊され、柔軟性や多様性を取り入れることができました。

また、その後も関係が続く、バックグラウンドの異なる友達ができたことです。例えば、高校の友達には結婚式にブライズメイドとして呼んでもらい、オーストラリア流の結婚式を経験させてもらいました。また、同時期にアデレードにいたドイツ人留学生とは、20代で何度かヨーロッパで落ち合い、一緒に旅行をしました。別の国で暮らしている彼らの価値観やセンスは刺激的で、自分の中に新しい風を吹かせてくれます。

日本に帰国してからは、どのように過ごしましたか?

帰国してからは、ばっちりリバースホームシックになり、思い出の歌を聞いては泣いていました(笑)。でも、涙を拭いて英語を強みに受験勉強に打ち込み、大学に入りました。

大学時代のバイト代は、すべてアデレードに帰ることに費やしていました。大学だと2ヶ月ほど休みがあるので、その度にまたホストファミリーのところに"帰省"していました。大学3年生の時には、通っていたアデレードの高校で、日本語の先生のアシスタントとして働きました。授業のサポートをしたり教材を作ったりと、少しですが母校にも恩返しできたかなと思います。

その後のキャリアはどのように築きましたか?

就活時には、「恩返しをするために、オーストラリアに関わる仕事をしたい!」という確固たる思いがあり、オーストラリアに支社がある会社を片っ端から受けました。結果、日系の消費財メーカーでファーストキャリアを歩むことになります。でも配属されたのは八王子支店で、営業車に乗って、ドラッグストアに営業へ行く日々。愛情深い先輩たちやお客様に囲まれ、社会人の大事な基盤を学ばせてもらった場所でしたが、若かった私は「オーストラリアと全然かかわれないじゃん!」と、退職を決意します。

その後、在日オーストラリア大使館にて、オーストラリア留学をプロモーションする仕事に就きました。留学フェアを主催したり、大学や高校でオーストラリア留学の魅力を講演したりと、まさに夢の仕事でした。

現在のお仕事は?

現在は、IDP Educationというオーストラリアのメルボルンに本社を置く企業の日本支部で、広報・マーケティングの責任者をやっています。IDPは、世界で毎年400万人が受けるIELTS(アイエルツ)というグローバルな英語4技能試験を運営しています。留学や移住を見据えて受ける方が多いIELTSなので、過去の自分を応援するような気持ちで仕事に励んでいます。

​​ アデレードの経験が今の自分に与えている影響は?

アデレードに行っていない人生は想像できないほど、大きな影響を与えてもらっています。留学で得た自信や第二の家族の存在が、今の人生のベースになっています。


日本に遊びにきたホストファミリーと

これからのアデレードとの関わりはどのように考えていますか。

アナザースカイであるアデレードとは、これからもつながりをずっと持ち続けたいです。先日、コロナが落ち着いたタイミングで久しぶりに戻りましたが、豊かな自然、相変わらずフレンドリーな人々に、心も体も癒されました。またいつか、長期滞在したいなと企んでいます。

最近はアデレードから日本にくる友達も多いので、数ヶ月に1回、アデレーディアンと東京観光している気がします。コンパクトな街ならではのアデレードあるあるで、初めて会う友達の連れでも、話していくうちに共通の知り合いが見つかります(笑)。

最後に、アデレードのお気に入りの場所を教えてください。

たくさんありますが、1つはBotanic Garden。ゴールデンワトルなどオーストラリアの植物が感じられるところです。短期留学をした際、最初の週末に連れてきてもらった思い出深い場所だったので、ウェディングフォトの場所にも選びました。


@Emma Faith Photogprahy

また、Tea Tree Plazaのショッピングモールは、高校時代に映画を見たり、ショッピングをしていた思い出の場所です。近年は、ホストファミリーのおじいちゃんおばあちゃんと、ドーナツとコーヒーをお供に数年分のおしゃべりをする場所です。

それから、やっぱりGlenelgが好きですね。テイクアウトした出来立てのフィッシュ&チップスを海を眺めながら食べるのは、何歳になっても最高なひとときです。


夕暮れどきのGlenelgも美しいです




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moe.umehara0728@gmail.com