アデレード留学の魅力

特別インタビュー:アデレードで小学校から大学までを過ごした鈴木真吾さんのストーリー

小学生の時に家族でアデレードに移住し、現地の小中高を経由して大学卒業後日本で就職、現在は日本の大手広告代理店でストラテジックプランナーとして活躍する鈴木真吾さんにお話を伺いました。
突然飛び込んだ異文化の中で鈴木さんが成長していく過程、そしてその実体験を通じて留学や移住、人生について独特の語り口で展開される鈴木さんのストーリーをお楽しみください。

Q. 鈴木さんは小学校6年生の時に家族でアデレードに移住されたということですが、どのようなことがきっかけでしたか。

きっかけは父親です。94年に父親がアメリカに短期で行ったことから、彼の中で「将来的には絶対的に英語が必要になってくる」という事を肌で感じた、との事です。それから二年後に渡豪することになりました。父親は自営業をやっていたのですが、それも辞めて、僕ら子供達(二人の姉及び妹と僕の、計4人)の将来の為に人生の勝負に出た、という事ですかね。ただ、英語も喋れなければ知り合いもいない、もちろん仕事も無いという本当にゼロ(または相当のマイナス)からのスタートでした。当時、姉は15歳、14歳、僕は12歳、妹は7歳という年齢でした。それぞれ異なった年齢だったので、各自違ったストレスや不安などがあったと察します。もちろん、母親も相当苦労したと思います。

引っ越しが決まってからは、具体的な説明みたいなものは両親から受けていないと記憶します(20数年以上も前の話なので単純に忘れているだけかもしれませんが)。「オーストラリアに引っ越すから」という事を伝えられた事だけは、なんとなく憶えている様な、憶えていない様な、というくらいです。しかし、なぜ引っ越すのか、何のために?、誰のために?、なぜオーストラリアなのか?、なぜ今なのか?、などの質問をした記憶は特にないですね。恐らく、単純に何も考えていなかったんじゃないですかね(笑)。 これら本質的な質問より、僕の中では「友達とお別れするのは嫌だなぁ・・・」や、「オーストラリアに引っ越したら、人間ピラミッドの一番上、誰がやるんだろう・・・」と、そんな心配をしていたのは憶えてます。当時小学6年生だった僕は、小学生最後の運動会で「人間ピラミッド」(組体操の技の一つ)の一番上に立つ役をやる予定だったのですが、結局運動会には参加できない形で、1996年9月26日、オーストラリアに出発しました。

Q. いきなり現地の小学校に入学した時はどんな気持ちでしたか。またその後の小学校生活はいかがでしたか。

そうですね、今から振り返ると、英語が全く喋れない状態で一体全体どうやって生活してたんだっけなぁ、という感じですね。自分でも、不思議でしょうがないです。きっと、「YES、時々NO」と「OK」と「とりあえず、笑顔」、という、この最弱の三つを武器に日々を過ごしていたんでしょうね。「・・・あんまりYESばっかり連発しても不自然だから、たまにNOを挟んでおいた方が良いかな・・・」みたいなことを考えながら過ごしていたのでなかろうか、と。

アデレードでは二つの小学校に通いました。先ず初めに通った小学校では、それこそ、日本人どころかアジア人も僕と妹の二人だけだったので、周りの子供達は、僕たちを見て「なんか、髪の毛と目が黒い子が来たぞ・・・!!」という感じでした。その学校には3か月程通いました。正直、学校で周りの子供達や先生が何を喋っていたのかはサッパリ解りませんでした。よく、「英語なんて、気持ちがあれば伝わるよ!」とか「ボディーランゲージで何とかなるよ!」という意見も耳にしますが、それら意見に対し、僕は自分の経験に基づいてはっきり言えるのは、「そんな訳ない」です(笑)。残念ながら、そんなに甘くなかったです。例えば、大きい、小さい、などの比較的シンプルな旨を伝えたいということであれば、両手を用いて、大きい、小さいということを表現すればいいのですが、そう簡単にいかない場面も多々ありましたね。例えば、「どこ」(where)という言葉ですね(今振り返ると、「where」という単語も知らない、と言うのもなかなか信じがたい話だとは思いつつも、当時12歳の僕は本当に「where」という単語も知らなかったのです)。身体を使って、「どこ」(where)という言葉を表現しようとしましたが非常に難しかったですね。両手を使い、様々な方向を指してみたりしながら「こっち?そっち?あっち?どっち?」という意図を両手を用いて様々な方位を指すことで表現しようと試みましたが、全く通じなかったですね。傍から見たその図は、それはもう、滑稽だったと思います。謎の東洋人が、謎の踊りを披露している姿を、「何を見せられているのだ僕は・・・」という想いを胸に、まるで今までに見たことのない昆虫でも見るかの様な目で僕を見つめるオーストラリア人の男の子、という感じでしょうか。

図工と算数の授業に限っては、先生が喋っている内容が理解できなくても、なんとなく周りを見渡し真似る形で何となく騙し騙しで切り抜けてましたが、やはり、国語(英語)の授業などは辛かったですね。全く先生の言っている事や、黒板に書かれている内容が理解できないので、もう眠くて眠くて(笑)。英語が言語ではなく、音としてしか頭に入ってこず、頭がボーっとしてきて、寝ちゃいそうになるんですよね。恐らく、脳みそがその状況を把握できず、最終手段として「眠りモード」に切り替えようとしていたのかな、と。周りの生徒達は授業で出されていると問題と闘っている中、僕だけ睡魔と闘うという、そんな状態でしたね。とは言いつつも、極端な話、授業に関しては、そこに座っていれば(僕がその授業内容を理解してもしなくても)時間は過ぎて行き、いずれ授業は終わるのですが、辛かったのは休み時間でしたね。

休み時間は、それぞれが仲良く芝生の校庭を走り回っている中、僕は一人でした。ただ、考えてみれば別に驚く様なことでもないですよね。たいして周りと口をきいておらず、友達なんてできる訳がないですよね。僕が英語を喋れないからといって、向こうから気を遣って話しかけてくれる程みんな大人でもなかったですし。この様に、休み時間は僕にとってはまったく楽しくなく、正に 苦痛の休み時間を毎日過ごしていました。やる事もないので、一人で芝生の校庭の隅に座ってました。ただ、見つめる先には、サッカーをしている子供たちがいて、それはもう、混ぜてもらいたくてしょうがなかったですね(僕は小学2年生からずっとサッカーをやっていましたので)。しかし、肝心な「僕も混ぜて。一緒にサッカーやりたい」が言えなかったですね。恥ずかしいからとかではなく、英語でなんて言えば良いのかが分からなかった訳です。今振り返ると、色んなことが言えなくて苦しみましたね、子供ながらに(笑)。例えば、小学校には売店があり、みんながお菓子などを買っている中、僕は「○○を下さい」というフレーズが英語で言えなかったので何も買えなかったり。商品名だけ言えば良いじゃん、と思う方もいるかもしれませんが、僕はその商品名すら知らなくて、またその商品の名前を(英語が喋れないので)訊くこともできないという、もう、何もかもわからない状態ですよね(笑)。

ただ、とある日、ふとしたタイミングから皆と一緒にサッカーをできるきっかけがありました。その日も、いつもと同じ様に校庭に座り、サッカーをしている皆を眺めていたのですが、突然、天然パーマの男の子が一人近寄ってきました(後に彼の名はトムだと知りました)。トムは僕を見ながら、皆の方を指でさしながら何か言っていました。当然の如く、僕は彼が何を言っていたかは理解できませんでしたが、この状況で彼が言っていた内容が「一緒にサッカーやろうよ!」以外である確率は相当低いであろうと、12歳の僕にも理解できたので、彼に対し「YES!!」と連発しました。渾身の「YES」ですね(笑)。この日を境に、全ての問題が解決され毎日が楽しくなった、とまではいきませんでしたが、とりあえず休み時間が苦痛ではなくなりました。サッカーをやっていてよかったな、と心底思いました。あと、トムには感謝ですね、本当に。

この様にして、休み時間の問題は解決されたのですが、やはり子供ながらに緊張していたのか、毎日お腹が痛くて痛くて(笑)。ただ、さすがに授業中などにトイレに行かなくてはならない様な時の為に、「お腹が痛くなってしまいました、トイレに行っても良いですか」というフレーズだけは言えるようにしないと、と思い、家で辞書を使って、このフレーズを紙に書き、併せてカタカナで発音の仕方も書きました。翌日から、この紙切れをポケットに忍ばせて、授業中お腹が痛くなるとその紙を取り出し、「お腹が痛くなってしまいました、トイレにいっても良いですか」という英語のフレーズを頭で数回リピートし、忘れない内に先生の所に行き、丸暗記したカタカナ英語で先生に伝えました。この様に、お腹が痛くなる度に、この作業をずっと繰り返していました。ただ、後に気付いたのですが、どうやら僕が覚えた「お腹が痛くなってしまいました、トイレに行っても良いですか」というフレーズは、実は「お腹が痛くなってしまいました、トイレはどこですか?」という事だと知った時はゾッとしましたね。自分が通っている学校のトイレの場所を把握できてない生徒、ですからね、先生から見たら。

この学校に通い始めて、約3か月が経った頃、当時住んでいた家から別の家に引っ越す事になりました。それに倣い転校をすることになりました。次に行った学校は、現地の通常の小学校に併せ、ESL(English as a Second Language)の設備も兼ね備えていた学校でした。ESLとはつまり、「英語を母国語としない」と言う事を意味しており、世界各国から様々な理由でオーストラリアに来た子供達が、この様なESLの学校にて主に英語の勉強をしながら義務教育を受けます。僕のクラスには様々な国から来た子供達がいました。ベトナム、カンボジア、タイ、旧ユーゴスラビア、ソマリア、エチオピ、中国、ロシアなどの国籍の子供達と机を並べました。やはりこれだけ様々な人種が集まると喧嘩も起こっていましたね。エチオピア人対ロシア人、旧ユーゴスラビア人対タイ人、などなど。因みに僕はどこの国とも対立はしなかったですね、さすが日本人ですね。正に、世界情勢における日本かの如く、他国との摩擦を好まなかったのですかね(笑)。この様に、様々な人種の生徒がいたので、それは新鮮であり、また安心もできました。つまり、この学校に来る前にいた学校では圧倒的なまでにマイノリティー(オーストラリア人の中にたった一人の日本人)だったのですが、この学校では、「みんな外国人」という感覚を持つ事ができたので。この学校では、様々な国の文化の違いも目の当たりにする毎日でした。例えば、休み時間に外に出るとサングラスをかけた同い年の子供がいたりして(笑)。日本で言うところの小学6年生または中学1年生でレイバンの(そう、よくパイロットが掛けているティアドロップの、あのレイバンのサングラスです)サングラスをかけて、学校の休み時間に遊んでいる姿を想像して下さい。幼いながらに、やはり海外はすごいなと怖気付いた記憶がありますね(笑)。


1997年:クラスメイトと

さて、英語の勉強についてですが、基本的な文法などはこの学校で習いました。ただ、習得するまでに時間が掛かかったことは否めません。とある日、授業で英語の文法を教えてもらっていたのですが、全く意味が分からずポカーンとしてしまった事があります。耳に入ってくるのは、「○△○△○△○△・・・present○△○△・・・at eight o'clock・・・」という具合ですね。何度も聞き返しているうちに、単語を幾つか聞き取ることが出来ました。「・・・プレゼント・・・エイトオクロック・・・・なるほど!今日は誰かの誕生日でプレゼントを用意している、またはこれからするのか!!ふむふむ、なるほど、それでパーティー的な何かが8時に行われるのか。しかし遅い時間だな、8時って。まぁ、いいか、しかし誕生日は誰だ・・・」とそんなレベルの英語力でした。後々気づいたのは、その時先生が説明していた内容は、過去形、現在進行形、未来形などの文法を時間を用いて説明していたのですね。現在進行形の「Present Tense」の「Present」を「贈り物のプレゼント」と勘違いしたのです。僕のオーストラリア時代の小学校での生活を3つの単語で形容するならば間違いなく、「勘違い」、「混乱」、「素っ頓狂(すっとんきょう)」ですね(笑)。とは言え、この学校に入り、少しずつ英語が身についてきたのは事実です。時間の経過と共に、なんとなく話ができるようになってきたな、と実感できました。少しずつ自信が付いてきたのは確かでした。また、この学校でも、やはりサッカーを通じて友達ができました。しかし、学校に慣れてきた矢先に卒業する時期になりました。小学校7年生(日本の中学1年生)を卒業しハイスクール(中学2年-高校3年)に入学する事になりました。


1997年 学校にて

Q. 中高校はアデレードハイスクールで過ごされましたが、高校生活で良かったこと、大変だったことを教えてください。大変だったことはどのようにして克服しましたか。

アデレードハイスクールに入学してからはやはり、驚きの毎日でしたね。先ず、生徒の(英語を)喋るスピードがあまりにも速くて焦りました。小学校では、少し喋れる様になってきたかな?と感じていたのですが、結局のところ、あくまでも英語を母国語としない者同士で(会話が)成立していたに過ぎなかった訳ですね。ハイスクールの生徒は喋るスピードも速いですし、使っている単語も複雑でしたし、参ったなぁ・・・と思いましたね(笑)。不安と恐怖でお腹が痛くなってましたね、相変わらず。あとは、ハイスクールなので、校内に(日本で言うところの)中学2年生と高校3年生が共存してるわけですよね。当時の僕なんて身体も小さかったですし、英語もまだそこまで喋れたわけでもなく、その自信の無さが表情に表れていたと思われる中、現地の生徒(特に学年が上の生徒)は身体も大きかったですし、圧倒されてしまいました。当時の僕からすると、完全な大人を捕まえてきて、「この人達は子供です」と誰かが分かりきった嘘をついて、制服を着せていたのではないかと思うくらい大人に見えました。 


(前列:向かって右から2番目)1997年:地元のサッカークラブにて

最初の一年間はがむしゃらだった様な気がします。余裕なんて全くなかったですね。取り敢えず、学校に慣れる、という事でいっぱいいっぱいでした。二年目(中学三年生)から少しずつ慣れてきました。また、このタイミングで学校のサッカーのチームに入ったこともあり、友達の輪が一気に広がりました。改めて、スポーツの持つ力を実感しました。サッカーは好きで、小学二年生からやっていましたし、またアデレードでも地元のサッカークラブにも所属していたので、ある程度自信はあったので学校のチームにも参加しました。尚、アデレードという街にはイタリア人及びギリシャ人が多く、この学校にも多くのイタリア人およびギリシャ人がいました。多くのオーストラリア人は学校のクリケットなどのチームに入っており、アジア人は卓球や、バドミントンのチームに入っている中、サッカーになると圧倒的にイタリア人及びギリシャ人が多かったです。僕は勝手に(別に誰に頼まれたわけでもないですが)「アジア人だってサッカーできるんだ!」という事を証明したいという気持ちがあり、必死にイタリア人及びギリシャ人に混じってボールを追いかけていました。尚、正にこれが、僕なりの「大変なときの克服の仕方」かもしれないです。つまり、(あくまでも個人的な意見ですが)人間は人種問わず、極論、自分(その人)の行動に影響を与えない情報にはあまり興味が無いのではないか、と思った訳です。例えば、人は僕が「日本から来たShingo Suzukiである」という情報には基本的には興味が無いはずです。なぜなら、その情報と言うのは具体的に彼ら彼女らの行動に影響を与える情報ではないからです。そんな中、もし、「"サッカーがちょっとできる"、日本から来たShingo Suzuki」となった場合、とある人は「よし、コイツ(僕)を(チームに誘い)利用する事でチームが勝つ確率が少しでも上がれば、巡り巡ってオレが女の子に振り向いてもらえるかも・・・ケケケケ」と思った人もいたかもしれません。この様な思想を基に、「周りにとっての自分の存在価値」という事を意識する様にもなりました。つまり、小学校でもハイスクールでも、むやみに「名前を憶えてもらわなきゃ!!」と焦るよりは、「コイツ(僕)は○○ができるやつか」という形で認識してもらうやり方(つまり、相手の行動になんらかの影響を与える情報提供)の方が、結果的に自分を知ってもらう効率性が高かったのかと感じます。


(後ろの列:向かって右から2番目)2000年頃:ハイスクールのサッカーチームのメンバーと

計5年間通ったハイスクールで学んだ事として、良かった事としては、あまりにも沢山ありすぎて到底全てを説明する事は出来ないのですが、強いて一つ挙げるとしたら、「世界の広さを知る機会に恵まれた」ということですね。これは今振り返ってもそう感じます。当時を振り返ると、あまりにも濃度の高い、充実した生活を送っていたな、と実感します。今でも鮮明に憶えているのですが、とある数学の授業で隣に座った生徒と初めて交わした内容が忘れられないです。彼はイラクから移民する形でオーストラリアに来た生徒でした。真面目で、勉強家で、テストの成績も良かったです。そんな彼と、授業が始まる数分前に話した時の事でした。僕は彼に、「オーストラリアはどう?楽しい?」と訊いたところ、彼は笑顔で「まるでパラダイスの様だよ」と躊躇なくそう言いました。正直、少し大げさだなぁと感じたのですが、彼は「イラクでは家の外に出れば、銃を持った兵隊がうろうろしてるし、本当に生きた心地がしなかったけど、それに比べてアデレードは全くの別世界で、本当に安全だし、本当にパラダイスみたい」と目を輝かせて僕に言いました。実際のところ、アデレードは東京やロンドン、ニューヨークなどの世界的な街どころか、シドニーやメルボルンに比べても小さな街であり、シンガポールや中国、ヨーロッパなどの国から来た人達の一部は、アデレードの街の小ささをどこかでバカにしていました。「お店は夜になる前に閉店しちゃう」や「大都会じゃなからつまらない」といった否定的なコメントに慣れていた中での、彼の言葉には子供ながらに何か考えさせられるものがありました。同じアデレードという街を見ているにも関わらず、ここまで意見が違うという事実にハッとした事を今でもよく憶えています。つまり、重要なのは物事を捉える「視点」なのだという事をこの時に気付かされました。


(後ろの列:向かって左から3番目):2001年 ハイスクールにて

ハイスクールでの生活を通じて、様々な国の生徒と机を並べる事により得た経験は、今の僕の血となり肉となっている事は間違いないです。本当に楽しかったですね、ハイスクールは。もちろん大人になり、自分で少しお金を稼ぐようになったことでやりたい事(またはできる事)などの幅も広がったのは確かですが、純粋な楽しさ、でいうと僕の人生において、このハイスクール時代の生活は圧倒的に楽しかった時期の一つです。この時期の記憶が一番カラフルかもしれないですね(笑)。

Q. 大学は南オーストラリア大学に進学されました。大学では何を学びましたか。

アデレードには3つの大学があます。アデレード大学、南オーストラリア大学、そしてフリンダース大学です(因みにこのフリンダース大学には、日本人初の宇宙飛行士である毛利衛さんが通っていたとのことです)。僕は南オーストラリア大学の応用理科学部航空学科に所属していました。なぜ南オーストラリア大学にしたのかという理由に関しては、この大学には航空学科があったからです。つまり、日本で言うところの航空大学のようなコースがあったのが唯一、南オーストラリア大学であった事からこの大学に決めました。私が通っていたモーソンレイクス・キャンパスには他の理系の学生が多く、特にソフトウェアエンジニア系の学生が多くいました。従って、インド人をはじめとする、アジア人の生徒が多かった印象があります。大学時代の思い出は、「ひたすら勉強をしていた」ですね。尚、小学校からハイスクールへ進学した際に感じたギャップ以上の衝撃を、ハイスクールから大学に進学した際に感じました。やはり、大学となるとまたレベルがハイスクールのそれとは全く異なり非常に苦労した思い出があります。勉強面で言うと特に物理が非常に難しかったです。授業の合間には、多くの場合キャンパス内の図書館にて課題や予習などをしていました。週末には実際の飛行訓練も行われました。初めて飛行機を操縦したのは、シングル(単発)エンジンのPiper Warriorという、四人乗りの飛行機でした。一回の飛行訓練は基本一時間でインストラクターとペアで行います。先ずは「サーキット」と呼ばれる、空港の上空を決められたパターンで飛行する練習が行われます。サーキットの練習にて離陸及び着陸を繰り返し反復的に訓練(タッチ・アンド・ゴー)します。この訓練を個人差はありますが、通常15回~20回行います。つまり、飛行時間で約15−20時間を経たあたりで、ファーストソロ、つまり、インストラクターが乗っていない状態で、自分一人で飛行を行うというフェーズに入ります。尚、飛行機の大きさであったり、その空港のルールなど、様々な要素によって異なりますが、地上からの距離が指定された中で飛行は行われます。ちなみに、訓練が行われていたアデレードのパラフィールド空港においては、サーキットは地上から1,000フィート(約305メートル)の高さで飛行する、という規制がありました。しかしながらファーストソロということもあり、緊張していたのでしょうか、地上で見ていたインストラクター曰く私は900フィートあたりで飛行していた、とのことでした。そんなファーストソロでした。


飛行訓練にて

毎日、講義に出席する為に大学に行き、その後図書館で予習をし、分からない部分は教授のオフィスに直接訊きに行きました。ランチを食べる為に食堂に行き、再度講義なり図書館にいく、という、この繰り返しでした。基本的にはこの様にしてあっという間に大学の三年間は過ぎて行きました。別に、特に優等生であったわけでもなく、またこの様な勉強漬けの毎日を送りたいが為この様なルーティンに沿って生活していたわけではないです。単純に、その必要性があったが故、結果的にそうなったという事に過ぎません。大学時代の飛行訓練に関しては、大学を卒業したその後も続きました。ライセンスは取得したものの、日本の航空会社のパイロット募集は定期的に行われていませんでした。また、オーストラリア内のメジャーな航空会社に関しては応募するに当たりオーストラリアの市民権(即ちオーストラリアのパスポート)を保持している必要がある、などの規制から応募する事ができませんでした。そんな中、REX(Regional Express)という国内線(主に地方を網羅)の航空会社には書類選考が通り、適正テスト(筆記テストなど含む)まで合格したのですが、面接で通過できなかったりという事もありました。この様に、将来の進路について色々と非常に悩んだ時期でした。


大学卒業式にて

Q. 大学卒業後に日本に帰国されましたが、日本での就職に苦労はありましたか。アデレードで生活したこと、大学まで卒業したことはどのようによい影響がありましたか。

大学では航空学科で勉強したのですが、特に卒業後は少しずつ興味の方向が変わってきました。頭では、「大学で勉強した内容を活かしてパイロットにならなくては」と自分に言い聞かせていたのですが、それと同時に頭の片隅では、例えばコンサルティングやクリエイティブな仕事もしてみたい、という想いがありました。正に、「第一の原則として、自分を欺いてはいけない。そして、自分を欺くのは他の誰を欺くよりも簡単である」という、アメリカの物理学者、リチャード・ファインマン(アイザック・ニュートンおよびアインシュタインに並び、現代物理学に最も貢献した一人であるアメリカの物理学者)の言葉が浮かびました。そこで、思い切って大学では航空関連の勉強をしたのですが、一度それを全て忘れ、ニュートラルなスタンスになり仕事を探してみよう、とそう思い始めました。もちろん、何かを継続的に続けることは重要ですが、それと同様に、切り替えるタイミングも非常に重要かと個人的には考えます。正に、シリコンバレーはじめとするアメリカのベンチャービジネスの現場でよく言われる「PIVOT(ピボット)」ではないですが、なんらかの「方向転換」または「方針変更」が必要だと強く感じたのです。

この様にして、フレッシュな頭で仕事探しを始めました。コンサル系の仕事を中心に探していた時に、たまたま広告代理店の存在を知りました。尚、調べていくに連れ、広告代理店のビジネスに関してはアメリカ、イギリス、フランス、日本などが世界的にマーケットが大きいという事で、自分の故郷である日本で挑戦したいという気持ちになりました。もちろん、全てがスムーズに進んだわけではないですが、幸いなことに某総合広告代理店に採用して頂く形になりました。英語を必要とする部署だったという事もあり、オーストラリアの大学を卒業していたからこそ、チャンスを頂けたのかと思っています。

Q. 現在のお仕事やこれまでのキャリアについて教えてください。

僕は現在、内資の総合広告代理店に勤務しています。総合広告代理店とは、字の如くクライアント企業の広告活動を代理的に行うことを主なビジネスとしています。詳細は省きますが、ものすごくシンプルに言うと、広告代理店とはクライアント企業の目的や予算やスケジュールに応じて、具体的にどんな広告を、どんなメディアを用いて(広告を)出すことで、成果が最大化できるか、といったようなマーケティング戦略や企画を立案します。とは言いつつも、特に多くの外資とは異なり、内資の総合広告代理店は様々な職種から成り立つ組織です。少々雑な分け方になってしまうかもしれませんが、大きく分けると、広告代理店における仕事は「営業」と「プランナー・スタッフ」の二つに分かれ、それぞれが専門分野を分担して行う形になっています。興味がある方はご自身で調べる事をお勧めしますが、ざっくり言うと、「プランナー・スタッフ」の括りには、広告・ビジネス戦略全体の設計を統括する「ストラテジックプランナー」、メディアごとに企画・制作を担当する「メディアプランナー」(TV担当プランナー、雑誌担当プランナー、デジタル担当プランナー、イベント担当プランナー etc)など、それぞれ専門の職種が存在します。併せて、クリエイティブ制作を行っている、アートディレクター、コピーライター、デザイナー、またこれらの人々を全体的に纏めるクリエイティブディレクターなどの、クリエイティブ職の他に、広告代理店という一企業を支える、経理、法務、総務などの「バックオフィス職」などもあります。

僕は現在ストラテジックプナンナーとして、クライアントの広告・ビジネス戦略全体の設計を統括する部署にて幾つかのクライアントを担当させて頂いていますが、元々は今とは別の(内資の)総合広告代理店にて、広告業界でのキャリアをスタートさせました。その会社では、自分としては「そもそも広告代理店とは」という基本的な事を学ぶことができた時期でした。今でもお付き合いさせて頂いている数人の先輩や同年代の人ともこの会社で出逢う事ができたので、僕にとっては正に、広告業界の原点となっています。(多くの方々にお世話になりましたが、特にお世話になっている先輩が二人います。I氏とS氏です。I氏には誰よりもたくさん(もちろん僕の為を想って)叱っていただきました。また、S氏とは海外出張にも数回行きました。一度、ヨーロッパの出張で、僕が電車を間違えたが故、本来ドイツのドルトムントに到着しているはずの電車が、ブリュッセル(ベルギー)まで行ってしまった事もありました(笑)。今となっては、笑い話になっていますが、当時の先輩からすると(僕は)相当出来の悪い後輩だったと思います(笑))

しかしながら、少しずつ会社に慣れていく中で転職を考え始めました。尚、その理由としては会社が嫌だったからではなく、(広告代理店において)追求したい職種が明確になったから、です。転職を決めた理由は主に二つありました。一つ目は、ストラテジックプランナーとしてキャリアを築いて行きたかった事。もう一つは、外資の広告代理店に興味が湧いてきたこと、です。そもそも、現代の広告代理店というビジネススキームを世界で最初に創ったのもアメリカの広告代理店であり、遅れる事数十年でやっと日本にもこの様なビジネスモデルが入ってきた、との事を知り、非常に外資の広告代理店に惹かれるものがありました。この様な事もあり、後に外資系広告代理店に勤める事になりました。外資広告代理店での仕事の進め方などは、内資の広告代理店のそれとは大きく異なるものでした。もちろん、どちらが良い悪い、といった次元の話ではないのですが、会社の雰囲気も、スタイルも、人も、内資の広告代理店のそれとは違いました。(大した経歴ではないですが)経験値としては、僕は外資の広告代理店の方が大きいので、個人的にも(仕事の進め方などの)スタイルは外資系のやり方に慣れています。もちろん、どちらが良いか悪いかではなく、どちらが自分のスタイルに合っているか、という事だと個人的には考えています。ただ、(もちろん、僕がいる広告業界の世界においては、ですが)世界的に見てみると、この業界の人々の多くは、「会社名」ではなく、「自分の職種」に誇りを持って働いている様に見受けられます。もちろん、勤めている会社に恩も忠誠心も無い、という事ではないです。ただ、「どんな職種(例え営業だろうが、人事だろうが、クリエイティブだろうがetc)でも良いからこの会社名に拘りがある!」という人よりも、例えば、「アートディレクターとして自分はキャリアを積んでいきたい。その過程で、色んな会社で経験を積んで更にスキルアップを目指したい!」という様な考えを持った人が非常に多いと感じますし、実際に、数年ごとに転職をしてキャリアップを図っている人達もたくさんいます。僕が知っている限りでは、広告業界が盛んな欧米の国(例えば、アメリカ、イギリス、フランスなど)では、このやり方がメインストリームだと思われます。従って、(日本に来て、よくこの様な訊かれ方をされたのですが)「どちら(企業)にお勤めですか?」という様な質問ではなく、海外では「What do you do?(どんなお仕事をされていますか?)」という様な質問の仕方に繋がっているわけですね、恐らく。

過去に在籍した広告代理店の仕事を通じ、様々な国に行く機会がありました。アメリカ、イギリス、インドネシア、オーストラリア、シンガポール、スイス、スコットランド、ドイツ、フィリピン、フランス、ベトナム、ベルギーなどなど。この様に、仕事を通じて様々な経験をすることができましたが、僕が広告代理店のストラテジックプランナーという職種に魅せられている理由はシンプルです。もちろん、細かく言うと(理由は)複数ありますが、辿っていくと、恐らく「楽しいから」に行きつくと思っています。もちろん、(自分なりに)苦悩と感じる時も無くはないですが、それも充実と呼べる事が出来るのは恐らく今の仕事が好きだから、だと思います。 広告代理店におけるストラテジックプランナーの仕事の一つとして、「ブランディング」という作業があるのですが、個人的にはこの作業に非常に興味があり、また自分でも追求していきたい分野の一つでもあります。例えば、「THINK DIFFERENT」というタグライン(タグライン=乱暴な言い方ですが、企業のキャッチフレーズ、とでも言いましょうか)で知られるAPPLEという会社のブランディングはアメリカの某広告代理店がAPPLEと共に創り上げました。他にも、「JUST DO IT」で知られるNIKEのブランディングも、アメリカの某広告代理店が創り上げたものです。この様に、世の中に存在する多くのブランド(企業)は多くの場合、広告代理店とタッグを組んでブランディングを行っており、僕もこのブランディングという作業について更に勉強し、追求していきたいと考えています。可能であれば、アデレードと言う街をブランディングしたいなぁ、なんて妄想しています(笑)。アデレードという街を、一つのブランドと捉えれば、決して不可能な事ではないと感じています。オーストラリアにはシドニーやメルボルンの様な世界的にも知名度の高い街がありますが、個人的にはアデレードも適切なブランディングが行われることによって、それらの街には無い良さなどを打ち出していく事で更に知名度を上げることは可能だと信じています。僕の(アデレードでの)幼馴染で、南オーストラリア州で唯一の日本人弁護士として大手弁護士事務所を経て、現在アデレードにて個人事務所を構えて活躍する東田予志也(とうでんよしや)君という友達が居るのですが、彼とは、どうやってアデレードの存在を日本に居る人達(または日本の企業等)に知ってもらえるか、という話を週末にスカイプで話したりしています(彼はオーストラリア政府との繋がりも強いので)。どんな形でも良いので、南オーストラリア州及びアデレードの存在感を(日本に対し)更に上げて行きたいと強く思っています。僕は学歴も至って普通なので、アカデミックで攻めるよりも、例えば「Public Intellectual」などの方向で攻めていければ、と考えています。尚、Public Intellectualとは、「世の中の事を様々な角度及び方向で考え、状況や現象を分析し、アクティビストとして行動に移す人」を、そう呼ぶらしいです。僕ごときの頭脳では、世の中に溢れるほど存在する頭の良い人達に到底太刀打ちできないので、アカデミック方面からではではなく、行動量・行動力で勝負するしかないな、と(笑)。

Q. アデレードでの生活は今のお仕事やご自身の性格的な部分にどのような影響を与えましたか。

アデレードには様々な人種が住んでおり、日頃から(自分とは)全く価値観の異なる人達と接してきました。つまり、日々生活をするに当たり、圧倒的に必要とされていたものの一つとして、「違いを受け入れる姿勢」という要素がありました。良くも悪くも、「常識」とか「暗黙の了解」といった様な日本では重視されている事がオーストラリアでは確立されていない様に個人的には感じました。もちろん、これが良いのか悪いのかという次元の話ではなく、(近年では外国人も増えてはいるものの)基本的には単一民族の日本という国と、多国籍な国オーストラリアでは社会の構造が全く異なります。従って、「常識的に考えたらさ・・・」や「それは暗黙の了解でしょ・・・」と言った様な考え方は全く通じないが故、常にニュートラルかつ先入観を持たない状態で人々に接する必要がありました。この様なことから、「物理的に目に映っている現象だけで判断せず、物事の本質を見ようとする姿勢」を持つことは自分の中で習慣化されました。もちろん、本質を見抜くことは非常に難易度の高い行為であり、実際に現状どれくらいできているかは分かりませんが、間違いなくその姿勢を持つ、ということに関しては癖になっていると自負しています。(多くの仕事に共通するものでもありますが)広告代理店のストラテジックプランナーと言う職種において「本質を見抜く力」という要素は最も必要とされる要素の一つだと、日々の仕事を通じて痛感しています。もう少し付け加えると、「自分と違う考えの人間を受け入れ、そして実際に関わりを持つ」ということも、アデレードでの生活があったからこそ身についた思考の一つと考えます。やはり、アデレードには様々な人種が生活しており、時に、違和感を感じる程自分と違った価値観を持つ人に遭遇します。ただ、そこで批判をしたり、否定したりするのは簡単ですが、敢えて受け入れる、という重要性を学びました。やはり自分と違う考え方であったり、違うバックグランドを持った人と関わる事で様々な学びがある事に気付きました。多くの実験で証明もされているそうですが、偏差値の高い、同じバックグランドを持った人を集めるよりも、少々偏差値が低くても、違うバックグランドを持った人達が問題を解く時の方が、クリエイティビティが高く、また問題を解く確率が高くなるとの事です。正に、多様性ですね。やはり、自分から(思考やバックグランドが)遠ければ遠い人程、予測がつかなく、故におもしろい、という事は今でも強く実感します。それはなぜかと言うと、きっと、「計れない」からなのかな、と感じます。つまり、「計れない」モノ・コト・ヒトにこそ、面白さ、が含まれているのではないかと個人的には感じます。仕事でもそうですが、計ろうとすると、結果的に似たようなアウトプットになってしまうという現象が起こりがちです。もちろん、仕事をする上で、データや調査結果などが有効なのは間違いないです。ただ、データなどを用いて「計れる」という事に必要以上にフォーカスしてしまうと、重要な本質を見過ごしてしまう場合もあるのではないか、と気を付ける様にしているつもりではあります。例えば、「子育て」という圧倒的に重要な仕事(寧ろ、「子育て」という仕事なしでは、この世の中は成立しない程クリティカルだと思われます)が世の中にはありますが、どうやら、「子育て」は国のGDPには換算されないとの事です。つまり、効果を「計れるか、計れないか」でいうと、「子育て」は「計れない作業」になります。その理由は、「仕事ではない、なぜなら子育てに掛けている時間は何も生産していないから。つまり、生産性が計れず、経済成長に貢献していない」です。ただ、こんな理論、誰がどう考えても正しくないですよね。この様な事もあり、重複しますが、僕は個人的には「計れない」モノ・コト・ヒトにこそ、面白さが含まれているのではないかと感じます。

自分の性格的な部分に対する影響、という観点から言うと、そうですね、三つあります。 一つ目は、オーストラリアという国にいたことで、「過剰なまでにポジティブ(あるいは、過剰なまで楽観的な思考)な性格になった」ですかね。もちろん、個人的にはこれをプラスに捉えています(笑)。もう少し具体的に言うと、そうですね、「"大事の前の小事"に囚われすぎない思考をするようなった」ですかね。ご存知の通り、「大事の前の小事」とは、つまり、大きな事を成し遂げるには、小さい事にも気をつけて油断してはならない、という意味を持った諺であり、もちろんその通りであり、否定するつもりは全くないです。基本的なことであったり、小さな事も抜け漏れなく注意を払う事は非常に重要です。ただ、個人的な見解としては、実はこの考え方では、ある場合においてはキリがないのではないかと感じます。つまり、「では、どれだけ小事(細かく、小さい事)に注意を払えば充分なのか?」に行き着いてしまい、本題である大事、つまり、本当にやらなくてはならない「大事」の部分のスタートが遅れたり、または、小事の部分をやっている途中で、「やっぱり、無理かも・・・」と大事の部分を始めるにも至らない、という事にもなりかねない可能性も出てくる場合もあります。つまり、ブノア・マンデルブロ(フランスの数学者)が導入した、幾何学の概念である、「フラクタル」ですね、正に。フラクタルとは、図形の部分と全体が自己相似になっているものなどを言うらしいです。なぜ、ここでフラクタルなのかというと、つまりこういう事です。仮に、オーストラリアの大陸の海岸線の長さを測ってください、というお題あったとします。この場合、海岸線の長さを測るにあたり、より小さければ小さい物差しで測れば測るほど大きな物差しでは無視されていた微細な凸凹が測定される様に、その測定値は長くなっていきます。即ち、オーストラリアの海岸線の長さは実質、「無限大」であると考えられます。もちろん、実際問題としては分子の大きさ程度よりも小さい物差しを用いる事は物理的に不可能ですが、論理的な極限としては測定値が無限になる、という事は確かです。つまり、無限の精度を要求されれば測り終える事はない、ということです。正に、この概念は我々が日々暮らしている生活においても存在するのではないかと個人的に強く思っています。(良い悪いは別軸の話ですが)オーストラリアに住んでいる多くの人に比べ、もちろん日本人の方が些細な部分に気づいたり、先の先を見越した気配りができるといった作業に長けているのという考え方もできる中、オーストラリアに居る人達はオーストラリアに居る人達で、一見、「あんなに大胆で大雑把な感じでやっていて、大丈夫かな?」と思うことも様々な場面が多々あったりしましたが、大概の場合、最終的にはしっかりとやり遂げる、という様な印象があり、そんなことから、この、「大事の前の小事、ではない考え方」という考え方を意図的に意識してきました。つまり、些細な事(つまり小事)に関しては気にし始めると無限に気になってしまうのではないかと考えます。あくまでも、(過剰にディテールに拘り過ぎず)適切なタイミングでで「大事」の部分に着手する、が重要なのではないかと個人的には感じており、この考え方はオーストラリアにいたことにより強く意識する様になりました。

二つ目は、「物事をシンプルに考える癖がついた」です。日々の仕事でも、普段の生活でも、「で、詰まるところ、一体全体なんだっけ?」や「で、結局、最終的には何が言いたいんだっけ」と言う様に、余計な要素を可能な限り排除する思考になりました。20世紀のモダニズム建築代表する、ドイツ出身の建築家、Ludwig Mies van der Rohe(ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ)が唱えた概念である「Less is More (少ないとはより豊か、である)」という言葉があったり、あとはレオナルド・ダ・ヴィンチの言葉で「Simplicity is the ultimate sophistication (シンプルさは究極の洗練である)」というものがありますが、正にそれですね。つまり、足し算をするのではなく、引き算をしていきたい、という考えが自分の中にあります。(実際の生活でどれくらいできているかは分かりませんが)いかに、余計な要素をそぎ落とすことで物事の質を高めていくか、に興味がります。また、物事をシンプルに捉える一環として、「やるべきでない事を明確にする」という考え方も持つようになりました。よく、「やりたい事を明確にするべきだ」という様な言い方を耳にします。もちろん、この考え方は間違っていないと感じつつも、正直、「やりたい事」は無限にあるのではないかとも感じます。また、「何事も経験だよ!」という考え方も、姿勢としては間違ってはいないと思いつつも、残念ながら時間は有限であり、つまり、「やりたい事を明確にする」や「何事も経験!!」にフォーカスしすぎると、圧倒的に時間が足りなくなってくると考えます。従って、「確かに、何事も経験だし、やりたい事を明確にするのも大事だが、その中でも本当にやるべき事を明確にするには、つまりやるべきでない事を明確にする、という作業が最も重要なのではないか?」と考える様になりました。もちろん、可能であれば、なんでも経験したいですし、やりたい事も全部やりたいですが、いかんせん時間は有限であり、全てを網羅する事は圧倒的に不可能なのですよね、きっと。この様なことから、「やるべきでない事を明確にする」という作業にフォーカスしています。言わずもがなですが、日々の生活を送るだけでもあまりにも複雑な要素が大量に入り乱れてるので、自分の思考くらいはシンプルに保っていたいな、という想いが強いですね(笑)。

三つ目は、「自分の思考や判断の基準が日本だけではなくなった」です。僕は2010年に帰国し、それ以来日本に住んでいて、日本で働いています。即ち、今は(良い悪いは別として)「日本の社会のルール」で生活をしています。従って、「郷に入れば、郷に従え」の姿勢で日々仕事をしています。これは非常に重要な事だと感じます。別に批判する訳ではないのですが、周りに居る、海外に行ったことがある人の一部では、「日本は○○だからダメだ」の様な日本批判をする人もいますが、僕は個人的にはその様な考えはあまり持たない様にしたいと思っています。批判をするのは簡単(そして誰にでもできる)ですが、批判をするだけではポジティブなものはあまり生まれないと個人的には考えています。ただ、意識的に行っているのは、何かを判断したり、何かについて考える際は、日本というローカルな場所の常識であったり、倫理観であったり、歴史などのみでは考えない様にはしています。世界には70億人以上もの人がいて、日本の人口は世界全体のたった2%にも全く届かない程度です。この様な事を考えると、「日本ではこうだけど、世界的にはどうなのかな?」であったり「日本では非常識だったり、良いとされていないけど、世界的にみても本当にそうなのかな?」など、視点を可能な限り多く持つ事により、より俯瞰で物事を見て判断し、思考する癖はつきました。もちろん、「「大気汚染と地球温暖化」、「貧困・餓死」、「SDGs全般について」などの問題については日本のニュースでは他の先進国に国に比べるとメディアで取り上げられていないように感じられるけど、それは大きな問題ではないのか?」の様なシリアスなトピックを考える時もあれば、「日本の広告代理店はこう言ってるけど、世界的にみるとどうなのかな?アメリカやイギリス、フランスの広告代理店では違う事を言ってるのではないか?」などの、より自分の仕事や生活にダイレクトに関係がある事を考える時も、日本だけではない視点から物事を見たいという気持ちがあります。

Q. 鈴木さんにとってアデレードはどんな場所ですか。アデレードの良いところはどんなところですか。

アデレードですか・・・そうですね、ありきたりな言い方になってしまいますが僕にとっては「青春」です。そして、「世界の広さに気付かせてくれた街」であり、併せて「(僕の人生において)選択肢を広げてくれた街」です。就職してからは、(上記で述べた通り)様々な国に行く機会がありました。もちろん、ロンドンやパリなど、世界的に有名な街にも行く機会はありましたが、やはり僕の中ではアデレードも負けていないと思いますね(笑)。ちょっと強がりに聞こえるかもしれないのですが、本当に好きですね、アデレードは。やはり、落ち着きますし。

アデレードの良いところは、正に、「オーストラリアの良い部分」が凝縮されているところですかね。オーストラリアは州によってそれぞれの特色があります。もちろんどの州が良い悪い、という次元の話ではないですが、南オーストラリア州は、(適切な言葉での表現の仕方が思いつきませんが)やはり一番「オーストラリアっぽい」と個人的には感じます。なぜそう感じるか、というと恐らくオーストラリアの歴史に関係してくると(あくまでも個人的には)感じます。オーストラリアの成り立ちを紐解いていくと、どこの国から、どんな人が、なぜ、現在オーストラリアと呼ばれる大陸に来たのか、などが分かります。それに基づくと、南オーストラリア州だけ他の州とは違う点が明らかになり、正にこのポイントこそが、「他の州よりも、一番オーストラリアっぽい」という(あくまでも一個人の意見ですが)事に繋がっていると思います。では、南オーストラリア州は他の州と何が具体的に違うのか・・・・それは、みなさんの情報収集にお任せします。または、ご連絡いただければ別途お伝えさせて頂きます(笑)。他にも、アデレードの良いところはたくさんあります。例えば、色んな意味で、「汚染されていない」ということですかね。何と言いますか、「荒んでない」とでも言いましょうか(笑)。僕は、周りの人にオーストラリアについて訊かれると常に、「もちろんシドニーまたはメルボルンなどは確かに良い街だけど、「本当のオーストラリア」を体験したいなら、アデレードがおススメだよ」と言うようにしています。

「本当のオーストラリア」って何それ?と思われた皆さん、是非、アデレードの匂いや質感など、デジタル上では伝わり難い部分をご自身で実際に体験されてみる事をお勧め致します。ネットで検索したり、SNS等で写真や動画をみる事ももちろん良いのですが、それらの情報から得られる内容は残念ながら限度があります。アデレードの良さを理解するヒントは、インターネットなどで得る事が出来る情報以外(つまりデジタル上では伝わり難い部分)に多く含まれている様な気がします。もちろん僕も、仕事だったりプライベートではインターネットの無い生活は想像ができない程利用しているものの、その一方で、情報の入手が便利になりすぎた故、頭でっかちになりすぎているのかなと思う時があります。様々なSNSだったり、YouTubeだったり、またはテレビだったりを介して情報を入手し、知ったつもりになっているかもしれませんが、残念ながら自分の価値観が変わるほど実は知れていないと考えます。価値観が変わるような大きなインパクト持つものというのは(頭だけではなく)身体で体験したことだけだったりもします。


2018年:アデレードを久々に訪れた時の写真@セントラルマーケットにて

Q. これから留学したり、移住を考えている人にメッセージをお願いします。

アデレードは素敵な街です。個人的には、非常に好きな街です。豊かな街でもあります。また、現時点で目に映っている現象(例えば、同じ英語圏でもアメリカやイギリスに比べると田舎である etc)だけで判断せず、アデレードという街が持つ「可能性」(例えば、街としての経済成長率など)に注目するのも面白いかと思います。また、もちろんリスクを予測する事は圧倒的に重要ですが、残念ながら我々が住む現代において全てのリスクを把握し、除外する事は恐らく不可能に近いと思われます。従って、ある程度のリスクは承知の上で、冒険(留学なり移住なり)し、そのプロセスの中で仮説と検証を繰り返し、その時に出せる(自分なりの)ベストな選択をしていく事が齎す生活を楽しめる、という方々には是非アデレードをお勧めします。

尚、アデレードの事を調べるに当たり、もちろんインターネットでの検索だったり、インスタなどのSNSで写真を見てみたりするのももちろん役に立つとは思うのですが、残念ながらネットで見つかる情報というのは、つまり誰でも入手できる情報であり、故に(多くの場合)情報の価値としては残念ながら、(控え目に言っても)あまり価値がない情報が多いです。従って、本当に情報として価値のあるものを見つけたいのであれば、実際にアデレードに住んでいる人(または過去に住んでいた人)、留学している人(または過去にしていた人)に直接問い合わせて話を聞くことを強くお勧め致します。その方が、不確実性の高い情報をランダムに見ているよりも、更に価値のある情報を入手できると思われます。もちろん、僕で良ければ何でも訊いてください。お答えできる事であれば何でも答えさせていただきます!

 

【プロフィール】
鈴木真吾
szk.shingo@gmail.com
LINE ID: www.shin
1984年生まれ
1996年渡豪(アデレード)
2010年帰国(東京在住)
現在、総合広告代理店勤務