
世界からの移民シリーズ Vol.4
セルビア共和国(旧ユーゴスラビア)からの移民
近年のアデレードはアジアからの移民、アフリカからの難民を多く受け入れ、街を歩いていても様々な「顔」が溢れている。例えばバスに乗っても、白人、アボリジニ、アジア人、アフリカ人等々、まさにマルチカルチャーの光景を目の当たりにするのが日常だ。
しかし今から40-50年前は、アジア人もアフリカ人もほとんど居なかった。
当時の移民はイギリス、ギリシャ、イタリア、旧ユーゴスラビアからの移民が相当数を占めていた。
ピスタチオなどのナッツが入った甘〜い焼き菓子
M氏は多くのユーゴスラビア人が行くカナダへの移民を希望していたが、移民船に残席がなく、とにかく紛争の多いセルビア (当時 ユーゴスラビア) から一刻でも早く脱出したいという一心で予定を変更し、オーストラリア行きの船に夢と希望を持って乗り込んだ。妻を残し、単身の移住だった。
23歳で移民したM氏はとにかく「体」を使い、お金になる仕事は何でもやった。建築現場や工場などでおもに働いた。2つも3つも仕事を掛け持ち、とにかく働いた。英語がほとんど話せなかった彼は、肉体労働をする以外お金を稼ぐ手だてがなかった。しかし彼だけが特別だった訳でなく、その当時の多くの移民はほとんど英語が話せなかったので、体を酷使して自分達の生活の基盤を築くために、来る日も来る日も一生懸命はたらいた。
1年後に母国から妻を呼び寄せ、翌年には長男が誕生した。
しかしまだまだ生活は楽ではなく、ある時は妻子をアデレードに残し、アウトバックで2年近くも建築現場で働いた。いわゆる単身赴任である。「家族と離れて暮らしたことは、非常に辛かった」と家族思いの彼は、今でも当時を振り返ってそう語る。
しかし、その建築現場での仕事が人生の大きな転機となった。友人から紹介されたその仕事は、とにかくハードだった。
オーストラリア人がやりたがらない仕事で、朝暗いうちから日が暮れるまで、来る日も来る日も重い資材を運び続け、まるで奴隷のような仕事だった。その仕事をしている人は皆移民だった。
その苦労の甲斐あって2年間で「人の3倍」もの給料を稼ぐことができた。
その後アデレードに戻り、貯めた資金で家を買い、やっと人並みの生活ができるスタートラインに立てたと言う。0からのスタートではなく、マイナスからスタートし、やっと0に立てたと思ったと言う。
左:ピタと呼ばれる総菜が入った薄いパイ、ビーフ、サラダの盛り合わせ と 右:サルマ(ロールキャベツ)、ビーフ、マッシュポテトの盛り合わせ
その後英語も少しずつ話せるようになり、デリやフィッシュ&チップス・ショップ等で働き、やっと肉体労働からは解放された。後々自分でデリを経営できる様になり、生活は徐々に安定してきた。
次男も生まれ、経済的にも精神的にも落ち着いて来たころ、M氏は「勉強」したいと強く思うようになったという。10歳で両親を亡くしたM氏は、幼い頃から兄と親戚の家を転々とし、満足な教育が受けられなかった。勉強をしたかった時期に出来なかったことは、とても悔しかったと言う。自分が満足な仕事につけなかったのも学歴が無かったからだと言い切る。
40歳になった彼は一大決心をし、アデレード大学に入学した。今まで、幼い頃から「生きるため」に働き続けて来たM氏。初めて「自分のやりたいこと(夢)」と向き合うことができた。
もちろん家族の生活を支えなければならないので、パートタイムの学生として昼は自分の経営するデリで働き、夜は学校へ通った。忙しいけれど充実した日々を過ごし、通訳とソーシャルワーカーの資格を取った。
大学卒業後、ユーゴスラビアンセンターで、数年間ソーシャルワーカーとして働き、その合間をぬって、フリーの通訳として家庭裁判所で通訳の仕事をした。ソーシャルワーカーの仕事はとても充実していたが、やはり自分には商売の方が向いていると思い、再びデリの仕事に専念し、55歳で定年するまで、店の経営をしながらフリーの通訳として働いた。
65歳になった現在、妻と二人の息子家族、孫に囲まれて穏やかに暮らしている。
今でも、時々通訳として家庭裁判所で仕事をしている。先日まで週2日、友人のベーカリーで手伝いもしていた。もう働く必要はないけれど、仕事が目の前にあると「貧乏性」なので断れないと笑う。
もし、両親が生きていてくれたら・・・
もし、きちんと教育が受けられていたら・・・
もし、あの時カナダへ移住できていたら・・・
全く違った人生だったと思うとM氏は言う。
今は孫の成長が何よりの楽しみだという。
学習塾やピアノのレッスンの送り迎えは全てM氏がしている。
近所では「教育熱心なおじいちゃん」として、ちょっとした有名人である。
Reported by Sawa
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